盛岡藩初代、
南部信直公の没後百五十年にあたり
盛岡藩では、ご遺徳を偲び奉るため、
城内淡路丸に神殿を建立しました(後の「櫻山大明神」)。
江戸時代の終焉により、盛岡城は新政府に接収され、
櫻山大明神も城外へ遷座することになりました。
明治四年には市内の加賀野村妙泉寺山に仮遷座。
さらに明治十年、北山に新しく社殿を造営して
再遷座しました。
明治十四年には県社へ列格しています。
旧盛岡城地が特別縁故により
南部家へ払い下げられると、櫻山神社の
旧城地への遷座を求める機運が高まりました。
その願いが叶い、明治三十二年には
旧三の丸・鳩森下曲輪跡に神社境内地を造成し、
現在の本殿、拝殿、神門等が完成しました。
翌年に奉遷、鎮座され、現在に至っております。
櫻山神社では、年間を通じて、
多くのお祭りが行われています。
年の初めには、新しい年の平安と息災をお祈りし、
十一月の新嘗祭では、ご神前に新穀をお供えして、
五穀の豊穣を感謝申し上げます。
特にも例大祭は、神社で最も大切なお祭りです。
初日の由緒祭では櫻山神社の創建に思いを馳せ、
祭儀後には騎馬武者に先導された南部家のご当主と
御神輿が市内を巡ります。
翌日の例祭では、盛岡藩開祖の
南部信直公を始めとする四柱の大神等の御前で、
日々郷土をお守り戴いていることに感謝します。
盛岡藩嘉例の「蛇沼相米の儀」は、
この例祭の中で執り行われます。
ここでは、四季折々のお祭りをご紹介いたします。
歳旦祭
SAITANSAI
歳旦祭
日時:1月1日 午前10時
 歳旦祭とは元旦に宮中および全国の神社で行われている年頭の祭儀です。 新年をお祝いし、皇室の弥栄と国の益々の発展を祈ると共に、氏子崇敬者の息災と地域社会の繁栄を祈ります。 当神社では、元旦の午前10時から行います。新しい年の初めに神社へお詣りして、1年の平安をお祈りしましょう。
どんと祭・裸詣り
DONTOSAI HADAKAMAIRI
どんと祭 裸詣り
日時:1月26日
どんと祭:午後1時
(裸詣りは午後5時30分頃より)
 旧年中にお祀りした御札、御守、正月の松飾り等を神社に納め、お焚き上げすることにより年神様をお送りし、新しい年の無病息災や豊作を祈願する神事です。 境内に古神符納め所がございますので、お詣りの際にお納めください。 当神社では1月26日の午後1時から境内にて「どんと祭」を行います。 またこの日の夕方には裸参りが行われます。 盛岡市消防団の第三分団と第六分団により行われており、さらしを巻き腰蓑を付けて鐘の音に合わせ、ゆっくりと進む寒詣です。 1年間の無病息災、五穀豊穣、厄男・厄女の厄除けを祈ります。
節分祭
SETSUBUNSAI
節分祭
日時:2月3日 午後4時
 旧暦では立春を新年とすることもあり、立春の前に行われる節分の行事は、新年を迎える年越しの行事でした。また節分は祓いの行事でもあり、豆をまく人には厄年の方や年男・年女が選ばれます。
 当神社では午後4時から拝殿にて「節分祭」が行われます。
例大祭
REITAISAI
例大祭
日時:5月25日〜27日
 櫻山神社の例大祭は5月25日の由緒祭から始まります。午後の神輿渡御では、騎馬武者に先導された南部家のご当主、御神輿が市内を巡り、盛岡城内の旧本殿跡で由緒祭を執り行います。岩手公園が開園百年を迎えたことをお祝いし、再び由緒ある場所で旧本殿跡由緒祭を執り行っています。2日目の例大祭では、献幣使参向のもと、ご社殿に於いて厳粛に祭儀を執り行います。盛岡藩開祖である南部信直公を始めとする四柱の神々に盛岡藩ゆかりの品々、海の幸、山の幸がお供えされます。 盛岡城内新年慶祝の行事として伝わる「蛇沼相米の儀」は、献饌に引き続いて行われ、ご神前にお酒と鮭が献ぜられます。また例大祭恒例の「献詠の儀」も、この日に行われ、ご神前に献詠されます。
 櫻山神社の例大祭は盛岡に初夏の訪れを告げる風物詩となっています。
新嘗祭
NIINAMESAI
新嘗祭
 11月23日は現在「勤労感謝の日」で、国民の祝日となっていますが、本来は五穀の豊穣を感謝する日です。 宮中の神嘉殿(しんかでん)では新嘗祭が執り行われ、天皇陛下が神様に新穀をお供えし、御自らも食されます。
 当社では11月26日に執り行い、五穀豊穣を感謝申し上げております。なお、ご参列の方に初穂で奉製した「稲穂守」を授与しております。
大祓式
OHARAESHIKI
大祓式
 大祓式は年に二度行われ、6月の大祓を「夏越(なごし)の祓い」、12月の大祓は「年越の祓い」と呼びます。大祓詞を唱え、人形(ひとがた・人の形に切った白紙)により、身についた半年の間の罪・穢れを祓い、茅やわらを束ねた茅の輪(ちのわ)を3回くぐります。
 常に清らかな気持ちで明るく元気に毎日を過ごせるよう、半年間の心身の穢れを祓い清め、無病息災を祈る神事ですので、ご家族お揃いでぜひご参列ください。
櫻山神社は、南部家四柱の神様をお祀りしています。
創建のルーツとなったのは、
盛岡藩初代の南部信直公をお祀りした
「淡路丸大明神」です。
時は寛永二年(一七四九)。
この神殿は、やがて「櫻山大明神」と改称され、
文化十五年(一八一八)には
南部家初代の南部光行公も祀られます。
明治三十三年、現在地に鎮座し、
大正元年には盛岡藩二代藩主の南部利直公と
十一代藩主の南部利敬公をお祀りし、
現在に至っております。
南部光行公
南部家初代
南部光行公
八百年を越える南部家を興し、
北東北の平安に努めた「永続神」
 光行公は源義光を祖とする甲斐源氏の一族で甲斐国巨摩郡に生まれ、父である加賀美次郎遠光より同郡の南部郷を与えられて移り住み、氏を「南部」と称えました。
 それからは、南部郷の地頭職(じとうしき)として馬産に励んでいたと思われますが、父遠光が頼朝の旗揚げに加わってからは光行公もまた頼朝に仕えるようになりました。
 文治5年(1184)には源頼朝の奥州征伐に父と共に従軍したことが『吾妻鏡』に見え、その功により甲斐国南部郷に加えて新たに糠部五郡を拝領したと言われています。
 南部家の伝承によれば、建久2年(1191)光行公と家臣たちが八戸浦に着き、それから現在の南部町相内の観音堂に到着。やがて三戸まで進み館を構えました。その際に、新年の準備が間に合わず正月元旦を大晦日とし、二日を元日とした(いわゆる「南部の私大」)と言われています。
 光行公は牧監(馬産の管理)としての実績を見込まれて糠部の地が与えられ、南部家が北奥羽に拠点を築く端緒を開いたと言えます。
南部信直公
盛岡藩初代・南部家二十六代
南部信直公
戦国の世を英知・勇気・決断を
もって駆け抜け、
盛岡に藩を拓いた「開拓神」
 南部家一族の石川高信の子として天文15年(1546)岩手郡の一方井館にて誕生、後に三戸の田子城に移り田子九郎晴直と称しました。やがて南部宗家に家督をめぐる争いが起きましたが、北信愛の協力によって信直公が家督を相続することができました。その後、小田原に参陣を果たし、豊臣秀吉から南部七郡を安堵されました。ちなみに南部七郡とは糠部、鹿角、岩手、閉伊、紫波、稗貫、和賀であると考えられています。
 かねてより対立が続いていた九戸政実の征伐に成功した後、信直公は浅野長政や蒲生氏郷から「不来方(現在の盛岡)に本城を置くよう」に勧められたと言われます。
 慶長4年(1599)に三戸城で没しました。行年55歳、波乱に明け暮れた生涯を閉じました。信直公は、豊臣秀吉から南部七郡の安堵状「南部内七郡事大膳大夫可任覚悟事」(なんぶうちしちぐんのことだいぜんのだいぶかくごにまかすべきこと)を受け、本拠とした盛岡に築城を開始するなど盛岡藩の基礎を固め、南部家を近世大名に押し上げた南部家中興の祖であります。
南部利直公
盛岡藩二代・南部家二十七代
南部利直公
城を築き街を整え
農産業の進行と五穀豊穣、
領民安堵を計った「安泰神」
 信直公の長子として天正4年(1576)三戸の田子館で誕生。
 天正18年(1590)には、父信直と小田原参陣を果たし、その陣中で元服を済ませました。この時に烏帽子親となった前田利家より「利」の一字を拝領して利直と名乗りました。
 利直公は九戸政実の乱平定後、信直公より盛岡城の築城を託されます。
 慶長2年(1597)3月に盛岡城の鎌始め(起工式)を行い、「不来方」という地名を盛る岡の意味を込めて「盛岡」と改称しました。公自ら現場で工事の指揮を執ったとも言われており、慶長4年(1599)に本丸などが完成したようです。
 利直公は関ヶ原の戦に乗じた和賀忠親の旧領回復の一揆を鎮圧することに成功すると共に、思い切った家臣団の再編成に取り組み、さらには検地を実施して家臣団はすべて城下に住み、石高に応じた知行地を与えられるようになりました。
 寛永9年(1632)8月、江戸の桜田邸にて57歳の生涯を終えました。利直公は、鋭敏かつ機略をもって盛岡城の築城と城下町の建設、領内の経営に力量を発揮し、英知に優れて信望も厚かったと伝えられます。
南部利敬公
盛岡藩十一代・南部家三十六代
南部利敬公
法律と消防組を整え、
学問を奨励し
藩校教育を推進した「学問神」
 天明2年(1782)九代藩主・南部利正公の次男として出生、3歳で家督を相続しました。利敬公が幼年の藩主であった時期は、天明の大飢饉の揺り返しで不作が続いて、藩財政は極度に窮迫しました。利敬公は入部後に倹約令を発し、家老政治を排して自ら政務を執られました。
 利敬公の任期を通じて最大の課題になったのは、北地警衛と沿岸の防備でした。盛岡藩も幕府からの要請によって出兵し警備に当たりました。蝦夷地の警備が評価されて文化5年(1808)に盛岡藩は10万石から20万石へと昇格を果たし、利敬公は侍従となられました。
 利敬公は、上衆小路にお稽古場(学校)を設け藩学の基礎を作りました。
 また町火消しを創設し、城下の要所に火の見梯子を立て、半鐘を付けたことも特筆されます。さらに訴訟判例「文化律」を制定すると共に民事裁判所に相当する公事方評定所を設置しました。
 文政3年(1820)盛岡城で没し、享年は39歳。治国は歴代藩主最長となる37年に及びました。利敬公は親裁によって藩役人の腐敗を一掃して藩財政を立て直し、盛岡藩の安定に尽力しました。明治41年には北地警衛の功績により従三位を追賜されています。